「 遣隋使 」一覧

入試に出る歴史史料 「遣隋使」

国書には「日の昇るところの天子が、日の没するところの天子に書をおくります。ごきげんいがかですか」などと書かれていた。

古代を代表する歴史史料「遣隋使の派遣」です。資料そのものは「隋書倭国伝」に記載されていますが、そちらはほとんど出ません。出題されるポイントは以下の通りです。

・使節が派遣されたのは607年。年号そのものよりも冠位十二階・十七条の憲法の後というのがポイント)
・派遣を命じたのは聖徳太子で、使者は小野妹子
・相手国は隋
・狙いは大陸の優れた制度・文化を学ぶこと

少し難しめの内容としては、どちらも天子(皇帝)という立場で親書を出すことで「対等の立場での外交をしようとした」ことを記述問題で聞かれることがあります。

あと、「遣」も「隋」も間違えやすい漢字なので注意しましょう。

1つの資料で複数の知識が問える便利な史料です。それにしても、失礼な文面ですね。


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正誤選択の問題はまず明らかに正解、もしくは誤りを探すことから始めます。自信を持って正解と言い切れる選択肢があればベストですが、いつもそういうわけにはいきません。
この問題ではまず外したいのはウ・オです。ウはちょっと笑っちゃいますね。遣隋使と言えば、おなじみ小野妹子ですが、初めて聞いたとき女性と思う人は多いでしょう。小学生時代の私もそうでした。オの鑑真は中国に渡った人物ではなく、中国から渡ってきた人物です。

イはなかなかいやらしいです。遣唐使の初期は朝鮮半島をわたるルート(北路)を使っていましたが、新羅との関係が悪化すると危険な東シナ海を渡るルート(南路)をつかうようになりました。ここまではいいとして、台湾を通ったかまではっきり地図で覚えている生徒は少ないでしょう。ただ、日本周辺の地図を思い浮かべると台湾までいくと大回りすぎるんですよね。実際は、奄美・琉球から唐に渡っています。

最後にエです。ぶっちゃけた話、聖徳太子蘇我馬子の関係がここまで史料からはっきり分かったら日本古代史の記述が変わります。
遣隋使の派遣と言えば607年ですが、中国の歴史書には600年に日本(倭)から使者が来たという記述があります。しかし、当時の日本は法整備が遅れており、中国から相手にされなかったようです。それが、603年冠位十二階、604年十七条の憲法といった取り組みにつながっていったと考えられています。この文は、大胆にみてきたような嘘をついた面白さがありますね。

対等外交を求めてきた倭に対して隋は快く思わなかったものの、高句麗遠征などで疲弊していた隋に事を荒立てる力がなかったというのは意外と有名な話です。難易度としてはそこそこで、偏差値70に迫る学校に合格しようと思ったらここは取っておかなくてはいけない問題でしょう。

答え:ア


入試に出る歴史上の人物 「小野妹子」


聖徳太子の指示のもと、遣隋使として派遣されたのが小野妹子です。


遣隋使の狙いの一つとして、対等な立場で中国と外交関係を結ぼうとしたことがあげられます。

小野妹子は他の時代の外交官(たとえば、遣唐使の犬上御田鍬)と比較しても登場頻度の高い人物ですね。よく考えると、ちょっとだけ不思議です。

読み:おののいもこ


入試に出る歴史上の人物 「聖徳太子」

聖徳太子
593年、おばである推古天皇摂政についた人物が聖徳太子です。
聖徳太子は603年、能力ある役人を取り立てるため冠位十二階を制定しました。翌年、役人に対して心構えを示す十七条の憲法(憲法十七条)を制定しています。
607年、小野妹子を遣隋使として派遣しました。これらの内容は時代順に並べ替えをする問題の定番です。

また、現存する世界最古の木造建築である法隆寺をつくらせました。聖徳太子の頃の文化を飛鳥文化といいます。


聖徳太子に協力した豪族に蘇我馬子がいます。

「聖徳太子」という名前は死後よばれるようになった名称のため、高校の教科書では厩戸王(うまやとおう)という表記が主流になっています。中学校の教科書でも「聖徳太子(厩戸王)」という書き方がされています。
最新の研究成果で教科書の扱いが変わった筆頭にあげられる聖徳太子ですが、今でも重要人物なことに変わりはありません。

読み:しょうとくたいし


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